20109.2
ゴーヤチャンプルを食べた帰りに、立ち並ぶビル群の向こう、深緑にむせかえる遠山を見ながらふと「絵の90%はデフォルメだ」と考えた。
ここで言うデフォルメという言葉の意味はほぼ辞書的解釈で相違ない。参考に引けば「デフォルマシオンの技法により、対象を変形して表現すること。(デジタル大辞泉)」であるが、デフォルマシオンという言葉が耳慣れないため、後半の「対象を変形して表現すること」のみ拝借して広義に捉えることにする。
つまり何を考えたかと言うと、絵とかイラストとか落書きだとか、そういった人の手によって描写されるものの内90%は、「どのようにデフォルメされたか」という視点で見ることができるということである。古今東西あまたあまたの人達が思い思いの手法で、線で、タッチで、絵を描いてきた。それらをどのように見て、鑑賞して、楽しんで、分析し、分類するか。その評価基準の一つとして、すごく重要かもしれない基準として、その絵の「デフォルメのされ方」を見てみるということである。
「詩とはメタファーである」と言われることがあるが、同じように「絵とはデフォルメである」と言えそうな気がする。90パーは。
もしかするとそんなこと太古の昔から言い尽くされてきたことだ、と言われるかもしれないし、私だって過去に似たようなことを考えたことがないわけじゃなかったと思うが、何しろゴーヤチャンプルを腹にちゃんぷるさせる道すがら、霊感のように浮かんだので、わざわざここに書いてみた。
芸術作品と言われるものを客観的に分析するのは難しい。難しいながらもできるだけ主観を除いた見方をしたいと思う時がある。その脱主観的観点は、なるべく多い方がいい。その一つとして、これから積極的に「デフォルメ」観点で絵を見てみようと思う。つまり言い換えれば「実物とどう違うか?」である。「実物との違いをどのようにして見るか?」ということについてはこれからの課題なので、まだここに詳しく書くことはできない。あくまでも観点の発見である。
というのが、半分。
さっきからしつこく90%と書いてきたが、残りの10%がこの後に続く話。
さて、絵と呼ばれるものの内90%は実物に何らかのデフォルメを加えたものであると言ったが、では残り10%は何なのだろうか。ちなみに何%という数値は(もちろん)厳密に計算しているわけではないので、あくまでアトモスフィアで捉えて欲しい。実際ここからの話の中で数値の重要性はほとんど無いが、事の発端が「90%!」だったので一応最後まで割合を付加しながら書く。重要なのは分類である。
まず、残り10%の内9%は無形物の描写である。つまり元々実体がなく、決まった形を持たない事柄を絵として表したものである。意味の無い線とか、筆の動くままに塗りたくったものなど、そもそも存在しないものを自動筆記的に描写したもの。そういうものが9%。楽しい、悲しいなどの感情を描写したものもここに分類される。これらは元から形を持たず、万人普遍の形も定義されていないため、デフォルメのしようが無い。これらは純粋に無からの創作である。もっとも、例えばポジティブな気持ちは白や暖色系で丸みが強く、ネガティブな気持ちは黒や寒色系でトゲトゲしているといった人類の共通認識らしきものが無いとも言えないが、明確な定義はなく多数決の幻を見ているようで心もとないし、何しろ主観に過ぎない。やはり無からの創造であり、デフォルメという概念自体が存在しないと言った方がよい。
残る最後の1%は、写実である。
実物にとことん忠実に描くこと。無形物と違ってデフォルメの可能性はあるが、しない。
以上でこの世のありとあらゆる絵を「デフォルメ」という観点で(大雑把に)100%分類できたことになる。簡単にまとめると下記。
・90%…実物をデフォルメしたもの。
・9%…無形物(デフォルメという概念自体存在しない)。
・1%…実物をデフォルメしないもの。写実。
「いわゆる抽象画は9%に入るのか?」と言われたら、答えはイエスでありノーである。それが実物を抽象化して描かれたものか、無形物を抽象的形状として描いたものかによって異なってくる。では「『死』の象徴として糸杉を描いたらどこに入るのか?」と聞かれれば、デフォルメされているかどうかの観点からすると、9%に入る。「死」に本来の形状が無いため、どのような形で表現したとしてもそれはデフォルメとはならない。しかしそれは作者側からの視点であり、鑑賞者がもし糸杉をただの「木」だとして見れば、現実のデフォルメまたは写実に含まれることになる。その辺りの判定は難しい。描く側と見る側との意識の相違は常に起こり得る。
また、文字などの記号を描写したものをどこに入れるべきか、別枠を設けるべきか迷ったが、記号も描写されることを前提として存在している時点で「実物」として捉え、80%の内に加えた。
それから写実をたったの1%にしたことについて「少なすぎる。古典の写実画も全て含めて1%とは何たる侮辱」と言われるかもしれないが、この話では美術としての絵画だけでなく落書きとしての絵も全て含めて人間の絵画的描写活動全般を包括したので、そのような割合になった。白い紙に鉛筆で一生懸命自画像を描いて「写実だ!」と言っても、もし肌の色を紙の地の色で残していたら、それは余白化(?)というデフォルメとして捉えることが出来るかもしれないのである。出来ないかもしれないのである。
その辺の細かいデフォルメ手法は今後見極めていく予定なんです!
trackback URL: