ドリーミー・ミー

 眠っている間に体験したことが、目覚めてしばらくの内にすっかり記憶からなくなってしまう。夢というやつだ。
 まったく学習しない生き物だとつくづく思い、次こそは、やれ明日こそはと、何度も何度も口をすっぱく海馬を圧迫して覚えよう覚えよう今度こそ覚えていよう、今度は覚えてられそうな気がする、いや忘れた、もう忘れた、またどっかになくなってしまった。という塩梅でもっぱらこっちの世界ばかりに構ってしまう。否、かような駄弁を弄する暇は、たいがいこちらにあるらしい。
 あちらがこうも朧気なのは(あるいはこちらがまた朧気であるかもしれないのは)、もしや私の脳味噌があちらとこちらで全く同じ領域を同じ分だけ同じ用途に使っているからではないかと思うに至った。
 つまり、あちらにいる時はこのシワクソの脳味噌の100%(平常使用している内の100%)をあちら用に使っておりそれで私という一個体が真っ当に機能しているわけで、さあでは目覚めよ彼岸へ出帆せよと、こちらに移る過程であちら用に機能していた脳味噌の幾分かずつをこちら向けにスウィッチしているとする。そうすると、寝起きでボウッとした頭はだいたいまだ70%程しかコチラ脳に切り替わっておらず、30%はアチラ脳として活動している。それで目覚めた後に、眠っている間に見た夢だと思っていることを、実際はその時もうつつと変わらず実体験していることになる。ただ割合が低いので、どうも非現実の夢うつつ蝶々ヒラヒラと思ってしまうわけだ。それは割合の問題である。
 またどうやら、海馬は共有資産らしい。あちらで体験したことを、今度はこちらに「記憶」として、書き写す。それを寝起きの間に多少は自然とこなしている。もう少し気を遣って覚えようとすれば、それはより確固たる記憶として残る。
 さて、あちらとこちら、寸分違わぬパワーバランスで脳を取り合いっこして、その勝敗が此岸と彼岸の版図を決めるという仮想だが、それではあちらとこちら、そのスウィッチとなっているものは一体何なのであろうか。それは押しボタン式のスウィッチか、あるいは切り替え式のスウィッチか、何らかの化学物質が作用するのか、あるいは定常的な物理状態がそれぞれに存在するのか。まだまだ思索の及ぶ隙は余りある。
 だが今のところはこの辺りで止めておく。何しろ私はこのところ眠たい。日がな一日まぶたとおしくらまんじゅうしつつパソコンと押し問答しているせいで、だいたい気づいた時はいつも眠たい。もう今夜は少し早めに寝ようと思う。

 水音が聞こえる。此岸と彼岸を分ける脳梁の川だ。
 私は川辺にてふと振り返り、立ちくらむ。自分がどこから来たのか、ぼんやりとして寄る辺もない…。

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