20067.8
ご存じかどうか知りませんが、その蚊もまた変身するのでした。これは他の変身する動物とは異なり、もっとも不完全な変身なのでした。どう見ても不自然な黒い点であり、あるいは妙に立体的なゴミでした。それはまさに細かい脚のシマシマまで見事に見えており、ときおり人間がそばを通り過ぎてゆくと、その重たい手のひらの衝撃や、噴霧されたフマキラーのにおいにやられて、ぶるぶると小刻みに震えたりするのでした。
そしてまた、その蚊はことさらグルメなのでした。毎日毎日、頼りない変装のわざを巧みにして、複眼のおおきな目玉だけぐりぐり動かして、まだ見ぬ血を、味見ぬ血を、その長い口吻に追い求める生粋のヘマトフィリアなのでもありました。なんと言いましょうか、それはまったくのいたずらのようだったのですが、そのとき、その日までもう四十九日も、血という血に、柔肌という柔肌に、蚊は何もありつけずにいたのでした。それが本当にいたずらだったのです。もともと痩せ細った脚は、もう一週間くらい、ほくろの毛の真似しかしていませんでした。不自然にシマシマの脚は、さしずめ白髪混じりでしょうか。もう既に、壁に留まっているのか、人肌に留まっているのかさえも、見失ってしまっていた、そんなときでした。
まるで神様のきまぐれとしか言えなかったのです。たしかにそれは奇跡でした。
蛍光灯の冷たい光をめいっぱい溶かし込んで、薄紅色に輝くお尻が見えました。次に見えたのは下腹部です。流線型に生えそろったほそやかな陰毛は、まるで泊まった辺境の湯治場で、ただひとりを奉公を許された生娘の持ち物のように、しっとりと、しかしたしかな弾力を残して、凍り付いた蚊の複眼の前を、悠然と動いてゆくのでした。細かい汗の粒が、きらきらと蚊の頭部に降りかかります。美しい。ただそれだけなのでした。美しい、美しいと、蚊はそのとき、胸部の底から思いました。ぴたぴたにつぶれた消化管に、さわやかなよろこびがあふれ、蚊はもう飛び立っていました。まさにそのときが、蚊にとって、生涯最も偉大な瞬間でした。蚊の口吻が、それから触角が、触角と頭部をつなぐ繊維が、そのひとすじひとすじが、神経の束と、そこを走る電流が、細胞が、こまごまとした粒子が、それを組み立てるひとつの意志が、それは蚊の生命全体が、ひとつの恐るべき矢印として、一点を刺した瞬間でした。
部屋の外では、ちょうど背教者が聖職を行う頃でした。おおきな影が、窓にゆらめいて消えます。このまま、なにものも、なにごとにも、気づかないまま時は過ぎるでしょう。鮮血を呑み込んだ蚊の死骸は、しばらくぷくぷくに膨れていましたが、やがてしぼんでしまいました。
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