20064.11
彼女は今にも改札の向こうに消えていくところだった。
僕はただ、人混みに呑まれて行く彼女の背中に焦点を合わせようと努めていた。
「どうするんですか。行っちゃいますよ」
声がして振り返ると、バッタがいた。気色の悪い顔をむやみにデコボコさせて、トノサマバッタが、僕の少し後ろ、街路樹の陰に立っていた。
「ほら。どうするんです」バッタが言った。
「頑なですね。いいんですか」続けて言う。
「ぼんやりしてるんですか。聞こえないふりですか。電車が来ますよ。彼女を」
僕は黙ったまま、ごちゃごちゃとにぎわうホームに彼女の姿を探した。
「意固地な人だ!」
目をつぶって、息を吸って、吐いた。彼女は見えなかった。乾いたレールを踏んで、電車がホームに入った。
「乗ってしまいますよ。またややこしいシナリオを考えてるんですか。報われないですよ。私が何を考えてるか教えてあげましょうか。草のことですよ。それから雌のことです」
入ってきたのと同じ速さで、電車はすぐに出て行った。改札からぱらぱらと人ごみが吐き出され、どこかに散って行った。そんなふうにして、また何事もなかったように、すごく簡単に静かになった。
「不思議ですね。電車が入って、出て行って、それだけなのに、こんなにも決定的な断絶があるなんて。不思議と言えば、彼女は今、猛烈なスピードで空間を移動している。箱に入ってるからわからないけれど、その速さは驚くべきものです。箱を取り除いて、彼女の体が、空中をすごい速さで滑っているのを想像したら、なんとも不思議な気分になりませんか」
僕はきびすを返して、なるべくその生き物の方を見ないように、歩き出した。
しかし、
「あなたはまだどれだけか幸せですね!」
振り返ってしまった。
奇妙な四角い顔に、鋭く走った切れ込みのような口が、驚くほど歪んでいた。吐き気が込み上げる。つまづきそうに足を速める。さざなみのような、あかね色の薄雲が闇にかかるところだ。あれはきっと、笑っていたんだろう。
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