20117.9
四次元についてふと思いつくことがあったから、いずれ読む人があれば拙い発想に肉付けしてくれるかもしれないし、ここに書いておく。
別の次元同士が接触する時の話。ある次元に、一つ高次の形状が通過する場合を考えてみた。
一次元の直線上に二次元の平面が交差し、二次元の形状である円がその平面上を移動していると仮定する。そして今まさに、その円は一次元の直線上を通過しようとしている。円が直線に触れ、通過していく過程は、一次元から見れば、ある一次元上の場所にまず点が現れ、それが次第に一次元的な拡大を見せ、円の直径を最大とし、その後再び縮小していき、最後にまた点となり消える過程だと言える。一次元からすれば二次元の存在である円は認識不可能だが、通過していく様は一次元的に認識できる。
さて続いて次元を一つ増やして考える。二次元の平面上に三次元の球が通過するとする。前段と同様にその過程は、二次元平面上のある場所に点が現れ、次第に円として拡大し、球の直径を最大として再び縮まっていくというものだろう。これも二次元からは球が認識できないが、円の広がりとして高次の形状を垣間見ることができる。
そしていよいよ本題である。三次元空間上に四次元の形状が通過するとしたら。ここでは仮に四次元の形状を四次元球とでも呼ぶことにする。これまでと同様に考えれば、三次元空間上を四次元の形状が通過する時、まず空間上に点が現れ、次第に球として体積を増やしながら、四次元球の直径(と仮称する四次元球の大きさ)を最大として縮小に転じ、最後は点となり消滅する。
つまり論旨はここだ。我々の生活している三次元空間に一次元や二次元が同時に存在しているのと同様に、四次元もまた我々の空間を包むように存在していると仮定した場合、四次元上に存在する物体(形状)がふとした拍子に我々の三次元空間を通過したら、それは先述のような、突然虚空に現れて消える三次元形状として捉えられるだろうということ。
物理学も数学も無知に等しいので、ここで挙げた仮定がそもそも間違ってるってこともあるかもしれないし、ただ僕が知らないだけで、昔から考え尽くされてきたことなのかもしれないけど、今までまるで想像がつかなかった四次元の形状が、少し垣間見れたような気になって興奮した、というわけです。
例えば超常現象的な文脈で語られる光球なんかも、もしかしたら四次元物体が通過したのかも!?と考えると楽しくなるでしょ?
20114.4
自分の中に、自分の感覚の歴史がMacのタイムマシンのようにずらっと仕舞われていて、何かを見たとき「あ、これは十年前の感覚で再現できる」と思ったら、その何かはもう自分にとって過ぎ去ってしまった遺物だということ。
もちろんそこで懐古趣味に興じてもいいけど、たいていはテーブルの上で乾涸びたチーズを転がすように、ただ、そのように眺めるだけだ。
201011.10
何を考えていたのか、それとも何も考えていない頭にふと擦れ違ったのか、昔書いていたブログのことを思い出した。二人の友人と、名義を分かち袂を合わせ、ひと月ほど続けたはずだ。探してみたら残ってた。こういう、沈没船に絡む一切れのケルプみたいな何かまで大事にしまっておいてくれるのがインターネットというところだ。そのケルプには毒がある。
20107.25
昨日まではマトモだったのよ。そのカメラマン。でも聞いた話だから、らしいとしか言えないんだけど。だから昨日ってのもその前の日ってことね。昨日じゃないよ。あ、わかってる? で、カメラマンだから撮影でしょ。その日も撮影が始まるまではいつも通りだったの。
20107.24
いつ聞いても感動するというか、たぶん何よりも心を揺さぶられる声、それが元ちとせの声なんだけど、久々にまた昔の曲を聴いてみたら、やっぱり言い知れぬ感動が、僕の心肺を締め上げた。
20107.16
ここんとこ、このところ、ここのところ? このところ、はこのところで、ここんとこ、はここのところだから、このでもここのでもいいってことか。
こんところ、昔の文章ばっかり発掘して載っけてたんだけど、今度は、この度は、此度は、昔ミクシィをやってたころにそこに書いた文章を発掘。地層的には古生代って言うの? 中生代? 中学生時代? 中学生日記? サンサンサン、SUNのワンシーン、それはそうとして、2005年の文章です。懐かしい。と言っても覚えてない。